移住と仕事のリアルインタビューVOL.2(前編)
「備長炭で焼き上げた」という言葉を聞くだけで、おいしいに違いないと思ってしまうのは私だけでしょうか。しばしば耳にする備長炭ですが、三大備長炭なるものが存在することをご存知ですか?
紀州備長炭(和歌山)、土佐備長炭(高知)、そして日向備長炭(宮崎)が三大備長炭に挙げられているのですが、実は、ここ美郷町は北郷、特に宇納間(うなま)地区が産地の一つになります。
江戸時代から続く美郷町での製炭。現在、29世帯がその伝統を守っておられますが、そのうち13世帯が移住してこられた方々です。
今回、お話を伺ったのはその中の一人で、2015年に移住してこられた濱田修さん。濱田さんは、東京でハードコアパンクバンドのギタリストをしていたという、とっても興味深い経歴をお持ちです。
バンドも炭焼きも、どちらも周りの人を激アツにするという点で共通ですが、実際どっちがハードなんだろう、そんな疑問を持ちながらインタビューに臨みました。
東京での音楽活動の後、移住。炭焼きを仕事に
―――濱田さんはどちらのご出身ですか
「生まれは延岡で、2歳まで神奈川、それから高校卒業まで延岡です。その後、東京に25年いて、家族ができて。
一人暮らしの延岡の母が高齢化して、一人っ子の自分が近くに…と思って、延岡に戻ってきたたのが2014年です。」
※延岡は美郷の隣の市です。
―――最初から炭焼きをするつもりだったのですか?
「いいえ。東京にいたからこそ、自然の中での仕事が魅力的に思えて。一次産業には興味があったけど、具体的にこれっていうのは決めていませんでした。」
―――何がきっかけで炭焼きの世界へ?
「何をしようかなと迷っていたときに、子どもの幼稚園で日比野さんに出会いました。そして、北郷の宇納間というところには、移住者がいて、備長炭を焼いてる人もいるって事を教えてもらって、興味を持ちました。それまで、宇納間で炭を焼いてるなんて全然知らなかったよ(笑)」
移住地域の人とのつながりがなければ、炭を焼くなんて仕事はできない
―――炭焼きはすんなりはじめられたのですか?
「いいえ。炭焼きはみんな個人でやってて、会社があるわけじゃないから。意識はしながら、一年間は森林組合で働いてるうちに、『炭焼きがしたいのはお前か』って方が現れて。そして、親方を紹介してもらいました」
―――独立されたのはいつですか?
「この窯が完成して使い始めたのは、修業させてもらいだしてから10ヶ月後で、窯ができた段階で一応独立という形です。今も窯出しは手伝いに行ったり来たりするし、原料は融通してもらうこともあるし、ずいぶん助けてもらってます。これからも師弟関係は続いていくと思います。」
―――炭焼きって個人のイメージが強いけど、一人ではできない仕事なんですね。
「そうですね。いろいろな方が、それぞれのノウハウも教えてくれるし、原木のカシはいろんな山の立木を買って伐らせてもらう。その山主さんとの交渉だとか、地元の人とのつながりがないとできない仕事だね。移住者がいきなりできる仕事じゃないと思う」
―――移住してきて、地元の人の信頼を獲得するコツがありますか?
「とにかく、一生懸命働いてると、誰かが見てて、声かけてくれるようになるかな。『あんた、よーやりよるね!』とかって」
田舎暮らしも忙しい!仕事とプライベートのバランスは課題。
―――ギターは弾けてますか?
「弾けてない!(きっぱり)仕事が山積みで、時間が無くて、というか夜は疲れてしまって。移住前は、軽くバンドでもやれたらなーって思ってたけど、全然だよ(笑)」
―――東京での生活もお忙しかったと聞いていますが、こちらの方が忙しいですか?
「忙しさの質が違うっつうか、今のが忙しいね(笑)東京にいたときは、徹夜の仕事もあって、時間は出鱈目で、きつい時もあったけど、休みもとれてた。
今は自営だからやったことは全て自分にかえってくるし、自ずとやるようになる、というかやらざるを得ない(笑)まだ未熟なこともあって余裕がないです。
9時に寝るなんて早いな~!って思ってたけど、こっちに来てからは、体を使う仕事だから、それくらいには眠くなっちゃう(笑)そういう意味で健康的ではあるかもしれないけどね」
濱田さんのお話はまだまだ続きます。後編「アウトドア大好きでも、炭焼き仕事はノリが違う!ワイルドに近づくのは厳しいんだ!」へどうぞ!